天才佐伯祐三の真相

 

 序論 佐伯祐三の画業    落合莞爾

 洋画の天才佐伯祐三の事績については、『周蔵の手記』『救命院日誌』のほか多くの資料が吉薗家に残されていた。いずれも極めて信憑性の高い一級資料である。私(落合)は平成八年三月以来、月刊雑誌「ニューリーダー」に連載中の「陸軍特務吉薗周蔵の手記」のなかでそれらを解読してきたが、佐伯の画業そのものには触れなかった。それは美術専門家の出現を待っていたからであるが、すでに四年に垂んとするのに、誰も名乗りをあげなかった。佐伯の画業に関する真相の究明をこれ以上放置することは、読者の期待を裏切るほか、社会の損失を招くものであるから、自らの浅学を知る身とはいえ、敢えて吉薗資料を整理して佐伯の画業を追求し、いわゆる公開作品と吉薗佐伯との関係を明確にしようと思う。

 

 一、米子の加筆の次第

 第一次渡仏時代までの佐伯の事績については本論で述べるから、ここでは省略し、佐伯の画業の大筋の理解に必要な事項をかいつまんで述べる。

 佐伯祐三一家は大正十三年(一九二四)正月パリに到着し、佐伯夫妻は同年初夏頃、美校の先輩里見勝蔵に連れられて、フォービズム(野獣派)の総帥ヴラマンクを訪れた。そこで祐三は、ヴラマンクから画風のアカデミズムを手酷く攻撃されていたく発奮し、以後はフォービズムめかした表現主義に向かうが、画業は遅々として進まない。「ヴラマンクの黒は、実は中国の北画の黒」と看破した米子は、夫に北宗画(北画)の技法を教え込もうとするが、祐三はなかなかこれを消化しない。功を焦る米子は、夫の原画に自ら加筆して作品を仕上げていく。

 翌年七月、佐伯夫妻の浪費を恐れてか、西本願寺大谷光瑞師の密命なのか、兄の祐正が一家を連れ戻しにきた。そこで米子の発案で、第十八回サロン・ドートンヌに、祐三名義で『コルドヌリ(靴屋)』と他一点(朝日晃によれば『煉瓦屋』)を、また米子が『アルルの跳橋』を急遽出品し、すべて入選した。祐三名義の『コルドヌリ』は米子が描いたものである。これは、留学成果を強調するために米子が企んだ賭けであったが、たまたま入選し、しかも思いもよらず売れたために、帰国がしばらく猶予されることとなった。

 以後の祐三は、モンパルナスの街頭風景を速筆で写生して多数の原画を描き、夜になると米子が北画の技法でそれを仕上げた。売るためである。これにより、作品は最終的にフォービズムを脱し、小綺麗な作風となった。一旦帰国した時、佐伯は「文字はね、例えば縦の棒が太ければ、横は細く描くのですは」「平筆という形の筆を利用しまして、筆の通りに使えば良いのですよ。それがあの人(祐三)にはできませんのよ」(『救命院日誌』)と、独自のレタリングの秘法とそれに馴染めない自分のことを、米子の弁として周蔵に報告している。ことに、建物の輪郭をまるで柔らかい紐のようにぐにゃぐにゃと表現した祐三の原画を修正するため、米子が加えた強い調子の黒線は、「筆一本で絵が生きる死ぬ、ありますのよ」というくらいで、原画の画風を一変させるが、加筆はそれに止まらず画面全体に及んだ。

 すなわち「秀丸(祐三の幼名)そのままの絵に一寸手を加えるだけのこと・・・ガッシュというものを使い画づらを整え、また秀丸の絵の具で書き加えますのよ」(昭和四年周蔵宛米子書簡)とあるように、不透明水彩絵具(グァッシュ)を用いて原画の細部を修正したものであった。(現代の代表的修復家杉浦勉氏によると、グァッシュを利用して修正した後で油をたらして表面を調整するのは、油彩の修復技法である。その技法を、米子が知っていたのは、パリでその方面の勉強をしたからと思われる、とのことである。また、吉薗佐伯は米子加筆品と比べて色調がかなり異なっているように見えるが、後述するように、この原因は、主にニスが経年変化で変色したことによる)。

 これに対して祐三は、「米子ハンが仕上げてくれはるけど、わし、自分の画が見えんやふになってしまふて」(大正十四年十二月二十五日付、周蔵宛佐伯祐三書簡)と嘆いた。米子は後年「祐三は二十号を三、四時間で描き上げ、それらの作品は室内で加筆することは決してしなかった」(『みずゑ』昭和三十二年二月号)と発言している。むろんこれは、自身の加筆を隠すためで、夫のデッサンや下書きを手元に有しない不自然な状況を正当化するためでもある。昭和四年以来夫の遺作に加筆して生活源資を作り出していた米子にとってやむを得ない虚言であったが、これを鵜呑みにしたのが朝日晃氏である。

 朝日氏は一貫して「現場一気制作説」を唱えるが、客観的根拠を何一つ示してこなかった。美術評論家の傍ら佐伯作品の鑑定を業としてきた朝日氏が今なおこの説に強くこだわる姿勢は、先日のTBS番組「報道特集」でも見られたが、氏の強調する縦の真っ直ぐの線は、それこそ米子が祐三の原画を修正するために最も留意して加筆した部分なのである。ここで、朝日説を否定する根拠には事欠かないが、その一例は、パリ時代に佐伯のアパートを訪れた芹沢光治良が、制作現場で、祐三自身がたまたま漏らした「画架において眺めなければ善し悪しは分からず、画架において加筆しなければタブローにならない」との発言を覚えていることである(『美術手帳』昭和二十五年二月号)。

 

 二、特製画布の次第

 佐伯の画業で最も特記すべきは画布である。

 佐伯は学生時代から画布に工夫をこらしていたらしいが、渡仏前に用いていた画布は「膠を湯に入れ、油とマルセル石鹸を加え、水と馴染ませてから胡粉を混ぜて塗る」(鈴木誠『みずゑ』昭和四十二年一月号)ものであった。翌年(大正十四年)サロン・ドートンヌに出展した頃からは、さらに工夫した画布を使うようになり、当時の画友渡辺浩三によれば、「それは麻布に膠を引いて乾かし、リンシード油とマルセル石鹸を膠に入れて攪拌し、亜鉛華を加えたものを厚く塗り、乾燥したところで再び膠を引く」というものであった(『美術』昭和十二年四月)。

 ところが、この画布は大変重くて、外で写生をするにも持って歩ける代物ではない。そこで、写生に際しては、亜鉛華の代わりに炭酸カルシウム(白亜)を薄く塗った軽いキャンバスを持参し、油絵の具で下絵を描き、アトリエに戻ってから、本格的な厚いキャンバスに写した(佐伯祐三自筆『革表紙の巴里日記』)。

 第二次渡仏の際には、更に工夫をこらした大量の特製キャンバスをパリに携行した。つまり、佐伯の描画の手順は、

A.現場で鉛筆でスケッチする

B.また水彩でデッサ ンする

C.さらに油絵で下描きする

D.自宅アトリエで油絵で本格画を描く

 という4段階であった(周蔵宛佐伯祐三書簡)。ここで、Cの 画布は白亜を用いた軽いもの、Dが亜鉛華を塗布した重い画布である。断っておくが、以上は私の新発見ではない。武生市の真贋騒動の渦中の平成七年二月二十五日付「福井新聞」には、京都近代美術館長富山秀男氏が、吉薗資料から発見して、それまでの「現場制作説」を修正したとある(富山氏はAを除いて3段階と表現するが、同じことである)。

 

 三、帰国期と第二次渡仏から夭折まで

 大正十五年三月に帰国した佐伯は、五月吉薗周蔵に頼み、フランスで描いた油彩九点を含む三十点を買って貰い(『救命院日誌』)、里見勝蔵らと一九三〇年協会を結成して、展覧会を開く。以後は第二次渡仏に向けて本格画用の特製画布を多数作るが、九月には、渡仏中の作品十九点(米子加筆作品)を二科展に出品し、入賞し好評を博したが、祐三自身はその頃から盛んに『下落合風景』を描いた。

 昭和二(一九二七)年七月、シベリア鉄道経由で第二次渡仏した一家は十月、周蔵の依頼を受けた薩摩治郎八の手配で、モンパルナスのブールヴァール一六二番地の新築アパートの三階に入居した。二階には、薩摩の夫人千代子のアトリエがあった。この頃の作品には、すべて米子が加筆しており、祐三は「あれは俺の絵やあらへん。俺が手伝った米子ハンの画や。マッスグな線ときつい文字を組み合わせた、北画のゑ々画や」(佐伯祐三「第二次巴里日記」)と嘆いている。

 十一月、第二十回サロン・ドートンヌに、先年と同様米子加筆品を出品したが、この頃から佐伯は米子の介入を排し、薩摩千代子のアトリエに籠もって、独自の画を描くようになった(薩摩千代子宛・佐伯の置き手紙)。米子はそうした佐伯に見切りをつけて、新来の画学生荻須高徳のもとに走り、北画を指導した。

 十二月二十三日、風邪で寝ていた祐三を案じた薩摩が、ロシア娘のモデルを寄越してくれたので、二枚続けて描く(「ロシアの少女」のデッサンの裏に佐伯自筆の書き込みがある)。

 昭和三年一月、吉薗周蔵は上原元帥の密命を果たすためフランスに渡り、佐伯と再会する。二月初旬、佐伯は荻須らを連れて、モラン地方へ写生旅行にいく。中旬、周蔵は、画布を補給にパリに帰った佐伯とたまたま会い、佐伯の顔を見た最後となったが、「この時、佐伯は元気そのものだった」(「周蔵手記」)。

 米子は離婚の腹を決めるが、世間体のため、荻須の見つけて来たリュ・ド・ヴァンヴのアパートに、三月十三日一家ぐるみで秘かに引っ越す。佐伯はまだ煮え切らなかったが、三月十五日、ついに離婚が決まる。米子は祐三の原画五百枚の分与を条件とするが、祐三はこれに返事せず、当日単身モンマーニュに写生旅行に赴いた。引っ越し後も、米子は荻須の処へ通い、佐伯は、元のブールヴアールのアパート二階の薩摩千代子のアトリエへ通って、描いていた。

 この頃から急に、祐三の体調がおかしくなり、「目がよく見えない・・・舌が痺れる」(周蔵宛・祐三書簡)ようになった。四月下旬、佐伯は元のアトリエで、郵便配達夫をモデルに四枚描く(デッサンの裏に祐三自筆の書き込み)。六月四日、見舞いに訪れた山田新一は、佐伯に「一種の死相が漂う」のを見た。十三日に佐伯を見舞った芹沢光治良は、「アパートに大勢の日本人が詰めかけた異様な風景」を見ている。佐伯の結核は、この時でも、周囲にとって問題にするほど重症ではなかった。二十日、佐伯は失踪し、クラマールの森で首吊り未遂を発見され、同二十三日には発狂のため、精神病院に入院した。周蔵は誤診と誤った治療のために死んだ、としている。

 病院で米子の作る食事を拒否した(戦後の周蔵宛・米子書簡)佐伯は、八月十六日に至り衰弱死した。死因は、間接的には砒素中毒、直接的には衰弱死だったらしい。ここに至る原因は本文を見ていただきたい。さて、留学費用支援の対価として、佐伯祐三から吉薗周蔵と池田巻(のちに周蔵夫人となる)に提供された作品には、あらゆる時期のものがある。当初は米子加筆品が多かったが、やがて巻は、祐三のオリジナル作品にこだわるようになった(「周蔵手記」)。祐三が米子に隠れて千代子のアトリエで制作した作品は、祐三の遺言で、薩摩千代子と山田新一の手により、すべて吉薗家に送られたので、上述した制作過程のB、C、Dがワンセットとなって残ることとなった。Aも多少ある。

 夫の死後、昭和三年十月に帰国した米子は、生計のためと周蔵にねだり、夫の遺作を少しづつ貰ったが、それらの大半は、白亜(炭酸カルシウム)を使った軽い画布に描いた上記C、即ち油彩下描きであった。これらに米子が加筆して仕上げたものが、山発コレクションなどの公開作品の中心をなす。このことが今回判明し、本稿の主旨をなすわけである。尤もこれは、パリ時代の作品に限る話であって、帰国時代に描かれた「下落合風景」や「滞船」などは、祐三のオリジナル作品が吉薗家を通過せず、画会などを通じて知人に頒布されたものである。

 

 四、これを立証するもの

 上記の事情は、文献的には近年発見された吉薗資料から判明したのであるが、これを外部から証明するものとして、公開作品の中心をなす山発コレクションに関する幾つかの調査結果が注目される。それは、創形美術学校「修復研究所報告」第九巻[平成五年七月一日]から第十二巻[平成九年十二月改訂版]に所収されたもので、以下に引用するのは全て同報告所収の論文である。

 まず、大阪市立近代美術館建設準備室所蔵の佐伯祐三作品(以下「山発コレクション」と呼ぶ)のうち、平成三〜四年に十八作品を修復した時の報告「佐伯祐三作品の地塗層顔料調査結果」(第十巻)のなかで、うち十六作品より地塗層資料が得られたとし、顔料調査結果を報告したが、同氏は次いで、調査結果の追加分を(2)(3)として、第十一巻と第十二巻に発表した。今私がこれをまとめると、次のようになる。

1.カルシウム検出品 白亜の一層塗りしか確認できず、気泡による空洞がある。 二十五点

「黄色いレストラン」「カフェレストラン」「靴屋」「パリ十五区街」「場末の街」「モラン風景」「ヴォージラールの家」「煉瓦焼場」「工場」「ロシアの少女」「村の風景」「郵便配達夫(半身像)」「レストラン」「オプセルヴァトワール付近」「街角の広告」「壁」「絵具箱」「運送屋」「酒場」「村と丘(1)」「村と丘(2)」「広告」「モランの寺(1)」「モランの寺(2)」「モランの寺(3)」

 

2.鉛白と胡粉の混合の一層塗り  二点

「弥智子像」「村の教会堂」

 

3.亜鉛華の二層塗りで、上層が鉛白、下層が亜鉛華  一点

「汽船」

 

4.鉛白の一層塗り   一点

「パリ遠望」「裸婦」

 

5.亜鉛華の一層塗り  一点

「人形」

 

.バライト、亜鉛華、炭酸カルシウム及び、リトポン白を含む可能性がある   一点

「夜のノートルダム」

 落合注・「パリ十五区街」については、田中・宮崎は「X線で見る佐伯祐三『パリ15区街』他九点」(第九巻〉において、「地塗り層からは炭酸カルシウムと酸化亜鉛が検出された」としている。

 宮田氏は言う。阪本勝著の評伝「佐伯祐三」(日動出版)によれば、佐伯の自製キャンバスには二通りあり、材料はそれぞれ

〔A〕胡粉と膠と亜麻仁油(リンシード・オイル)

〔B〕亜鉛華と膠と石鹸水と亜麻仁油

であったとしている(落合注・胡粉も白亜と成分は同じカルシウムである)。

 ところが、右の十六点のうちに〔A〕は一点もなく、〔B〕に相当するものが一点あっただけである。これは第一回の報告であるが、第二、三回を合計してみても、三十二点中二十五点が白亜であって、〔B〕に相当するものは一点だけである(落合注・他に「パリ十五区街」が、可能性があるのかも知れないが)。

 宮田氏は、評伝と調査結果の著しい差異の解釈に苦しみ、「画家がブランザンク(酸化亜鉛すなわち亜鉛華)と呼んだ白い物質が、中身が亜鉛だったかも知れない」とまで考える。それは「十一作品で観察できた白亜地は前述したように空洞が多く、厚塗りで、かなり大雑把に制作した印象を受け・・・少なくとも白亜地は、佐伯が自分で製作した印象を受け」たからである。この差異を合理的に解釈しようとした宮田氏が、「1の胡粉と呼んだものが実は白亜だった」とか、「2の亜鉛華は佐伯の間違いで、実は白亜だった」とか様々な可能性を挙げるのは、真摯で学究的な態度と評すべきであろう。

 ただ、本稿の読者は、吉薗資料にあった四段階説によって、山発コレクションの実体を覚られた筈だ。つまり、上の三十二点のうち、佐伯の本格画とみていいのは、3の「汽船」だけである。これは、帰国期の祐三が、自ら亜鉛華を塗布して作った本格画用の画布を用いた作品と思われるが、この絵については、田中智恵子・宮崎安章(前掲)が、「X線影像と絵の外観はほとんど一致する。一筆ごとの絵具の量や筆勢などがよく表れている」としていることからも、加筆されていないと判断できる。作風もこれを裏付けるかのようである。

 その正反対に、米子の単独作品と思われるのは、5の「人形」である。田中・宮崎(前掲)は、「X線調査の結果この絵と『弥智子像』は以前に修復を受けていない」とするが、修復も加筆も物理的には同じことだから、この二枚が無加筆であることを意味するものだろう。ここで、私が「人形」の実作者を米子とみる根拠は、何よりも晩年の周蔵宛ての書簡で米子自身がそれを匂わしているからであるが、一層塗りにせよ、わざわざ亜鉛華を用いた点に、祐三作品を装う擬態が感じられなくもない。

 2は、画布の格からすると元来は本格画用ではない。そこで、2に属する「弥智子像」が加筆(修復)なしとすれば、祐三の油彩下描きが無加筆のままで世に出たか、それとも米子の単独作品ということになる。前者の場合には、アンソール風な画風に米子にも加筆の契機がなかったと解釈でき、だとすれば、これが山発コレクションでは2点目の佐伯オリジナル作品とみて良いことになる。

 2に属するもう一つの絵「村の教会堂」につき、田中智恵子は「X線で見る佐伯祐三2」(第十巻)の中で、X線写真に「明らかに『村の教会堂』と異なった画像が浮かび上がった。描きかけの画布を使用したものと思われる」と報告する。これも、本来下描きであったとみれば、理解しやすい。

 1に属する二十五点は、前述のD、すなわち白亜を塗った軽い画布に描かれている。これらは、周蔵が祐三の遺品から油彩下描きを選んで米子に与え、米子がそれに加筆したものとみて、間違いあるまい。なかでも「カフェレストラン」については、田中・宮崎前掲は「亀裂上に油彩絵の具による補彩があり」、絵は「一息に書き上げたものらしく、X線像と絵の外観はほとんど一致している」としているが、現品をみると、顔の輪郭の黒線はグァッシュのようで、跳ね上げた筆使いには祐三のオリジナル作品とは認め難い違和感があり、これが加筆によることを強く印象づける。

 同じく1に属する「煉瓦焼場」のX線写真について、田中前掲「X線で見る佐伯祐三」は「絵の外観とは異なる構図が見られる。作品が建物の正面性を強調しているに対し、X線写真では空間の奥行きが感じられる。しかし、描きかけの古い画布を使用したのか或いは途中で構図を変更したのかは不明である」と疑問を投げ掛ける。

 読者は すでに本稿によって米子の加筆を知るから、これに対する答えをご存じの筈である。確かにそれは「描きかけの古い画布を使用した」絵である。ただし、「描きかけた」た画家は佐伯祐三であり、それを「使用した」のが佐伯米子であったことを。

 これらの画題を厚塗り画布に描いた油彩本格画は、最近まで吉薗家および周辺に存在していた。その一部を数年前に大阪の一流画商T氏が吉薗家から仕入れたが、また最近、山甚産業の山本晨一朗氏が債務弁済品として最近吉薗家から入手したものもある。だから、やがて加筆されていない作品群が出現して衆目を浴びる日も遠くないであろう。

 米子の加筆を如実に物語るものは、1に属する「靴屋」と、地塗りについては不明とされているが、有名な「郵便配達夫」である。「靴屋」について、田中・宮崎前掲は、「描き直しがみられる。手前のテーブルの縁の線が、絵の外観と異なり、左上方向へ伸びている」とするが、吉薗資料中にあった鉛筆デッサンを見ると、まさにこのX線写真の通りである。

 田中・宮崎前掲は、「郵便配達夫」について「人物の足や壁の線の変更が認められる」とする。そのX線(参考写真)が示す原画は、確かに祐三自身の作と考えられる。その根拠は、この傾いた地平感覚こそ、祐三が持病メニエール氏病の症候を逆利用したものだからである。ところが、これでは一般鑑賞家の共感を呼ぶことが難しいと考えた米子が、日本人コレクターにアピールしようとして、念入りに修正したものと断言していい。

 幸いなことに、「郵便配達夫」については、吉薗家から本格画のほか鉛筆デッサンが出現し、その裏面の周蔵に宛てた祐三自筆の書き込みから、製作過程も明白になった。昭和三年の暮春、佐伯が顔見知りの郵便配達夫にモデルを頼み、風邪をおして「四枚仕上げた」と書いている。構図をいろいろ変えているが、むろん本格画である。

        吉薗家伝来「郵便配達夫」    大阪市立近代美術館建設準備室所蔵「郵便配達夫」

 地塗りが不明(前掲)とされるから、山発品の「郵便配達夫」の原画が油彩下描きであったと断定することは、地塗りだけではできない。しかし、そのX線写真の構図とそっくりの「郵便配達夫」(本格画)が吉薗家に存在していた。山本晨一朗氏の強い要望(参考資料)で、吉薗から弁済提供された吉薗佐伯の一つである(これを山甚品と呼ぼう)。これを見ると、壁の線と床の線が、上記X線写真とそっくりであるし、何より驚かされるのはその構図である。つまり、山甚品の郵便配達夫は室内の椅子に座しているが、その背景は室外の風景に連なっている(参考写真1のA)。ところが、山発品では画面全体が室内風景にしか見えない。また、山発品では字を書いたポスターは壁に貼られているが(参考写真2のA)、山甚品では、この壁には大きな窓があり、ポスターは窓の上の壁(あるいは窓ガラスか)に貼られている。しかも、その下には、窓越しに道路の向こう側にある建物の入り口が描かれているのである(参考写真1のB)。そういえば、山発品の原画にも建物の入口が描かれてあったらしく、よくよくみるとその痕跡が窺われる(参考写真2、1のB)。

                   参考写真1                    参考写真2
 

 だとすると、山発品では画面を横切る線(X線写真では左上に向かう線:参考写真2のC)は床の線としか見えないが、山甚品(参考写真1 のC)ではこれが窓枠とも思える不思議な構図である。これについて、パリ在住の某美術評論家は、佐伯は当時パリで流行したサイケデリックな感覚を取り入れて、室内の椅子に座る郵便配達夫の姿に遠景を組み合わせ、そのような構図を描いたものと思う、と教えてくれた。

 その油彩下描きを周蔵から貰った米子は、日本人に判り易くするため、手直しして純室内風景に変えた。その時に窓枠(?)を床にした。だが、この変更は本当に成功したのだろうか。拙宅に来たパリ在住の評論家は、たまたま山本晨一朗氏に引き渡す前の山甚品を見て、米子修正の山発品よりもこの方を高く評価するとのことであった。さらに重大なる変改は、郵便配達夫の顔貌を替えたことである。佐伯の原画は白髭の柔和な形相であったが、米子はその頬を黒線で削ぐことにより、引き締まった、しかし原画とはまったく違う顔かたちにしてしまった。正に米子北画である。

 しかし私は、米子加筆品を贋作とは言わない。加筆品には、祐三が生前から承諾していたもの(書簡)が多い。祐三の死後に加筆したものもあるが、そのいずれも佐伯夫妻の合作品として、これまで通り鑑賞して、何も悪くないのではないか。そして、佐伯の単独作品より米子加筆品を好むコレクターがいるなら、画商たちが本物より高く売買しても、何の不合理もないと考える。光悦が土を捏ねて楽焼の家元に焼かせた茶碗は、楽家代々の名工の誰よりも高価である。美術品とはそんなものではないのか。

 ひとつ言っておくが、生前の祐三が常に「純粋」を叫んでいたのは、俗流評伝にあるような子供じみた単純な感情とは違う。読者はご理解頂けたと思うが。

 

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