天才佐伯祐三の真相    Vol.10

 

   第八章 二度目のパリ

 

 第一節 第二次パリ報告

 佐伯一家はパリ到着し、当日はホテル・グランゾンヌに泊まった。その時日を昭和二年八月二十一日朝七時とする(朝日晃「佐伯祐三のパリ」)のは、それなりの根拠があるのだろう。ところが、佐伯自筆の「第二次パリ報告」には、到着を十八日としており、既にして三日の違いがある。

 この「第二次パリ報告」は、内心の吐露に精神衛生上効果があるとして周蔵から勧められた佐伯が、第二次渡仏時代にパリで記したものである。吉薗資料の一部として一旦武生市に寄贈されたが、真贋騒動のために返却された。甚だ貴重な文献であるが、山本晨一朗氏の要求により、債務弁済の一部に充当せられ、現在同氏の所有になっている。

 同じような性質の日記として、第一次時代から書かれている「黒革表紙のパリ日誌」がある。周蔵が第一人称で狂言回しをつとめる「救命院日誌」に対し、この二つは、佐伯が第二人称の周蔵に報告する形式を取る。遠隔地では記帳できない「救命院日誌」の延長という意味もあるようだ。「黒革表紙のパリ日誌」の内容はかなり表面的であるが、これに比べると、「第二次パリ報告」は、佐伯の内面中の内面を告白したものと見て良い。ただ、佐伯特有の癖で書簡にさえ記載の日時に不正確さがあるが、「第二次パリ報告」における日時の変改が随所に見られるので、自筆文献といえども時日に関しては軽信することを避け、しばらくは朝日説にしたがうこととしたい。

 「第二次パリ報告」冒頭部分(以下、漢字・仮名遣い等は適宜改めた)

昨日十九日巴里に着きました。途中シベリヤ鉄道からの 外の景色に気を奪われて水彩を描きました。米子さんからは いまだそないな線ではあかんと 云われますが まだ描くことが  出来ません。

今度は イシの云われる通り あせらん事を守って 苦しい事にならんように やります。

しばらくは 米子はんから北画教わって 試してみます。米子はんの北画の実力こそ パリを描くのに 一番のワシの師です。ワシはほんま ええ嫁はんを貰いました。

 こっちに来て二日目 今朝早く 薩摩さんの用意してくれはった家 見てきました。新築の四階建ての 三階に住むことになりました。下の階に薩摩さん自身のを用意したとのことで、俺に一人用のアトリエ  用に使うようにと 云わはって ありがたいと思います。

俺は 米子はんの技と天分に畏れてしまうから 一人のアトリエは 助かります。

ほんまに 恵まれてます。

今日薩摩さんが 奥さんと見えはりました。きれいな人で  たまげてしまいました。巴里中探しても あんなに美しい人はいません。ほんまに日本人やろか 思うて 目を疑うくらい きれいな人です。

その内 いろんな画家の処へ 連れていってくれはる 云われましたが ええやろか 思います。

ワシは一日もはよう 北画の技磨かんと 米子はんが機嫌悪うて ヤチが可哀想や。

ワシがズボやからやろか 思う。

 

 以上の三条は、パリ到着直後の事項と佐伯の心境である。「第二次パリ日記」は、市販の大学ノートに記載されたもので、筆記方法に数種類違ったものがある。この部分は複写紙を用いたように見え、インクも緑褐色の不思議な色で、字体も蚯蚓がのたうち回るような奇態なものである。大多数の佐伯の筆跡が、ペン書きでピンピン跳ね、あるいは毛筆でぐにゃぐにゃ書き流しているのとは、かなり違って見える。筆記具の違いと思われるが、他に似たものを探すと、大正十四年十二月二十四日の付書簡(佐伯祐三発吉薗周蔵宛て)がある。

 この書体は、「第二次パリ報告」では、冒頭を含め飛び飛びに三カ所に分けて出てくる。一時にまとめ書きしたものかも知れないが、中には遺書と題した文ものある。佐伯にとって何か意味のある筆記方法と思われるので、これらを一括して「遺言書グループ」と名付けて、まとめて以下に掲げる。掲載順序はノート記載の順とする。

 

  十月十二日

米子さんは ほんまに頭がええし、あせらんように 云われても

イシは分かってへんから 云えるんやと 思います。

藤田さんから 画紙を ぎょふさん貰いましたから 米子はん 喜ばはって 一日に十枚あたりは 描いている。ワシの才は まだまだやと思います。

米子はん ×  ヤチ泣く。

十月十三日 木(イシの真似して曜日も書いた)

今朝、小包みが届きました。ヤチは朝夕の飯より菓子が好きやから えろうに 喜びよりました。

特にせんべいは 大好物やから。

米子はんは 布の包みを喜ばはった。金を一番好いとるのは 商の屋の子だからやろか やっぱ。

昨日 イシ宛てに手紙を出しました。藤田はんのことで ワシの心狭うなってました。

今は薩摩さんが 他人を気にせんようにと云わはって いまだ自分がだめな事 思い知らされました。 藤田さんの云わはる通りや。ワシは甘ったれのぼんですわ。

 

 ※周蔵宛の佐伯書簡で「昨日イシ宛てに出した」手紙と思われるものがある(日時不明)。要約。「パリについて三日目に、宿舎のホテルに藤田が来てくれて、画紙をたくさん頂いた。この手紙の用紙 がそれである。藤田が来るとは思いもよらず本当に驚いた。藤田のイシに対する義理だろうからワシは貴方に対して礼をいう。米子の実家のことまで心配して貰うて、報いないと罰を受けるだろう。貴方もパリに来たまえ。

  この手紙は、例のごとく山本晨一朗氏に渡ったから、今は手元にないが、ネケル氏からの独語書簡と同じ和紙のようだ。この手紙の理解に私(落合)は苦しんだ。何しろこの時点では、周蔵は藤田にまだ会っておらず、暗号手紙は別として正式には音信さえない。藤田は大正二年に渡仏し、大正十年代には祖国でも名を知られてきたが、美術門外漢の周蔵の交遊範囲ではない。又、ずっと帰国していない藤田が、周蔵に義理があるということも、説明しにくい。それなのに、この時何かの必要があって、藤田の方から佐伯に、周蔵の名を出したのであろうか。それとも佐伯がカマをかけているのだろうか?

 

日時不明(おそらく、十月二十九日)

この夕方、荻須君が来た。やはり巴里にあこがれて修業に来た。今着いたとこや。

米子さん 首ながう待ってたさかいに 喜びもひと潮。

イシや薩摩はんから 注意された事は 守れんと思います。

米子さんは みんなのあこがれの的やさかいに つきあいを控えるいうのんは 殺生やわ。

ワシが気つけるしか あらへんわ。

 

 ※下落合の佐伯宅に出入りしていた荻須高徳と山口長男が、佐伯の後を慕い、美校の後輩横手貞美と大橋了介を連れて、パリに到着したのは昭和二年十月二十九日であった。即日、佐伯のアパートを訪れたから、「来た・・・今着いたとこや」とは、正にその通りである。米子が首を長くして待っていた、というからには二人は既知みたいだが、この真偽には疑問があるのは、帰国時代米子は落合村に居らず、大磯に移っていたからである。「当地でへ来て二人は気が合った」と、他で強調していることからみても、おそらく佐伯の脚色であろう。周蔵と薩摩の注意とは、「徒らに画友を饗応して資金と時間と勢力を消耗するな」、ということ。

 

十一月三日

米子ハンと違う事 よう分かりました。

ワシは馬の目やった。イシの云わはる通り、馬とハエの目です。それは、米子サンのような広い道に 添ったやうな画は 描けんと思いました。

今は、米子さんえらく気い強いさかいに、時を見て相談します。

いまワシは モンマルトル描いてます。三枚目です。

R u e  de M o n t - C e n e s e  の小さなホテルを描いてます。

 

 ※メニエル氏病の患者は目眩に悩むが、視界の中心から、波紋が輪のように広がり、外に行くに従って見えにくくなる。これを周蔵はハエの目と呼んだ。それが変化したのが馬の目で、眼前のものと遠方がはっきり見えるのに、中間が見えない状態になる。だから、風景の奥行きが捕らえられず、殊に米子の北画の遠近法はよく飲み込めなかった。周蔵は佐伯に、自分の身体的弱点を逆に絵に利用したらどうか、とかねてから勧めていた。佐伯は漸くそのことを理解し自覚したのである。

 

22.1.1928 書き置きの事。吉薗周蔵先生に頼みます。

ワシは報らすつもりはなかったので 手紙は書かなかったけど 薩摩さんが報したと思いますので 詳しくは書きません。

ガスのことは、あれは事故ではありません。

米子サンが ガスの栓開きに行ったのを ワシは見ました。

不思議に思いますが 恐ろしいとは思いませんでした。

ヤチのことは思いました。けど仕方ないと決めました。

そん時 ワシは直感しました。米子はんとヤチは助かるんやと。それなら良いと思いました。

丁度ええと思った。これで死ぬんや、と思いながら 何やほっとしました。

おかしんやけど 頭のどこかで いいや お前は死なんと 誰かが云うたような気がしました。

目をさましたらネクル先生がいました。

六日間 入院しました。

◎イシに頼みます。これはワシの書き置きです。いつ死ぬかわからんから 又すぐかも知らんから。

米子ハンはまたいつか、ガス栓を開くやろと思います。心配なのは、恐ろしい事やけど、米子ハンはヤチのこともいらんかったらしい事です。

(中間を要約。自分は何時死ぬかも分からない。だから、ヤチが大きくなったら、ほんまのことを伝えて欲しい。米子より天分がなくて、小さいもの六枚しか できんかったと)

元気になれたら 仕事やります。六枚では少なすぎるから。

                         佐伯祐三

遺言のこと

 

 ※ガス事故は事実で、十二月中旬のことと思われる。ただし、米子はストーブの事故と語っている。「このアトリエで、ある夜ストーブの煙突の鍵を忘れたまま締めて寝てしまったので、毒ガスが室内にこもり、夜中に死んでしまうところでした。・・・・このため、一週間ほど床についてしまいました」(『みずゑ』昭和三二年二月号)。本物の精神分裂症だったとしたら、この事故は、実は佐伯の狂言自殺の可能性が高いと考える。米子が「普段は掛けていない目覚ましの音で目を覚ました」というのも、佐伯が故意に目覚ましを掛けておいた、と見るのである(周蔵遺書)。とすると、米子がわざわざ原因をストーブにすり替えたのは、佐伯を庇うためだろうか?

 内容は飛び飛びだが、実は以上で佐伯の第二次パリ生活が言い尽くされている。

(1)北画から馬の目への画業の転換

(2)薩摩千代子との出会い

(3)米子の荻須への乗り換え

(4)ガス事故

(5)藤田嗣治の監視下での画友との交遊、とすべての要素が、簡にして要を得て揃っている。佐伯がこれだけを特殊の書体にしたのは、周蔵宛てのメッセージだったと思われる。

 パリ到着後の佐伯が周蔵に宛てて出した四通の葉書もある。内容は大したものではないが、そのうち一通の差出地は、Hotel Grands となっている。これこそ、佐伯一家が最初に泊まったホテル・グランゾンヌ(Hotel Grands Hommes)なのである。佐伯はここに三日いた後、料金の安いホテル・パックスに移る。藤田嗣治が沢山の画紙を携えて見舞いに来たのは、どちらのホテルか分からない。一家は十月初頭に完工したブールヴァール一六二番地のアパートに入る。二部屋を薩摩が借りて、三階は佐伯家の生活用、二階は薩摩家も使うが、佐伯に解放用として使わせることにした。

 佐伯のことだから脚色もあろうが、過半は真実であろう。後日の周蔵宛て佐伯メモには、このアパートの住人は、なぜか日本人ばかりである。裏で薩摩が関与していたものと、私は思う。朝日晃は年譜に「二階に薩摩治郎八がいたことを熊岡は記録している」とするだけで、佐伯評伝「佐伯祐三のパリ」には、佐伯と薩摩治郎八、薩摩千代子、藤田との関係には全く立ち入っていない。真相は朝日流の知りうるところではないからである。

 

 第二節  馬の目と北画

 ところで、「第二次パリ報告」と並ぶ重要な資料に、佐伯が各種の紙面に書き残したメモ類がある。総じて佐伯から吉薗周蔵に報告する形式になっているが、その中に稀にではあるが、日付入りのものがある。以下は、佐伯のパリ生活と画業を原則年代順に記述しながら、該当する個所にメモ類を引用することとする。

 まず、次のメモ。要約。

 一九二七年九月二十二日。クラマールに来てみた。この前来たとき住んだ家はそのまま。藤田さんが、中山さんと小島さんに手配さした事を後で知ったけど、そのことは一度も礼を言っていない。

 次に、十月二日付(パリ案内記の地図の裏側に書き込んだメモ。周蔵宛て)

ゆうべ夢を見ました。自分はこの処この夢をちょくちょく見ます。

米子と争って、イシの家をこわした時の、えろう怒鳴られたあの時の事です。

自分が猫のヒゲ切った事、イシは怒ったのでした。

人間だけの世界ではない、と怒られて、仏教のこと教わったと思いました。

あの時の事思い出しました。あの時こわしたタンス板にかいた画は実に良くかいていました。

今はあの時の画を思い出して、新しい事に向かっているのです。

板にかいた画は、あの三枚しかないけど、実は今度こっちへきてすぐかいてみたのですが、まったくあの味あいが出ないので、主義を戻しました。誠あの画は実に良くできていました。

山賊のような顔をしてイシに怒られたので、よくかけたのかもしれないと、思っています。

今は良い絵を多くかいて、かえる事考えています。

 

 ※十月二日には、すでにアパートに移っていたらしい。佐伯は事実、板に絵を描いたことがあるらしい。良くできていたと自賛するその絵を見たいものである。

 さらに、パリ案内記の地図の裏に、次の書き込み。要約。

 一九二七年十月七日。ブラマンクの物質主義も、ユトリロの写実など、それぞれから教わった点は山々あるが、今は自分のものを描くことを主義にしている。今はアンソールも、どうしても自分とは違っている、と思っている。ゴッホの黄色が、もちっと暗い落ちついた黄色のもんが描けたら、自分の画の色が成るのではあるまいか。十月七日佐伯祐三。(略・荻須らが自分を頼ってきている趣旨)

 自分は薩摩さんの借りてくれた部屋に今一人でいます。画のことだけ考えて一人でいます。

※ここにも、日本から後輩四、五人が自分を頼ってきた、としている。彼らはまだ船上なのに。

 以下は、「第二次パリ報告」の中の、ペン書きの部分である。意義の大きいと思われるものを、原則として日記の記載順に、抄掲する。

 

十月九日(ノートの後ろの方に記載)

米子はんの手はすごい技をなしますので、、カンバスの下地に凝りはって、今では夜なべにそれが俺の仕事です。

ニカワと酸化亜鉛がようなじまんので 前にイシに教わったこと思い出して、中和のため石鹸混ぜたら、まとまりました。

米子はんはやさしいから、俺に画を一から手ほどいてくれますけど、そいで俺のを大切に思うてくれますけど、やっぱり出来上がると、俺のはどこにも見えんようになってますわ。

情け無いけど仕方おへんな。

米子ハン。朝から夜までよう働かはるわ。俺も手伝うから忙しいけど、米子ハンに並ぶれば 俺は思案ばかりしてる。

そいでも山田や兄さんに、こっちへ来てまた調子取り戻した云うて、手紙書いてしもうた。

いかんと思たけど、かいてしもうた。

これが俺のアホなとこや。がまんできん あほなとこなんや。吉薗先生許して下さい。

地の厚いカンバスは、北画の線引くとき、調子ええようです。

手ごたえがあると、米子ハン ほめてますは。

俺も練習して、ようなってきたら描いてみます。

カンバス作りは腕上げたさかい 自分のも作ってみます。

 

 ※これだと、特殊な画布づくりは米子主導ということになるが、日本で作りフランスへ送った画布は、すぐに使い果たしたのか。ニカワと亜鉛華にマルセル石鹸を入れる方法を周蔵に教わった、というのは「救命院日誌」的虚構で、佐伯は第一次渡仏の時からその製法の画布を使っていたという(渡辺浩三)から、第一次渡仏時代の公開作品の中から、その画布を使った作品を検出する作業が今後は必要である。

 文中幾分かの真実があり、「地の厚いカンバスは、北画の線引くとき、調子ええ」というのは、日本であらたに工夫してきた新兵器を讃えているものと思われる。

 

十月十六日

北画に迷う。俺に向いてへん思うと 米子サンに打ち明ける。米子はんむくれる。

ローマ字がうもういかん。ペンなら描けるかも。

                       ABC     ABXY

 

 ※佐伯はここで、ペンで英字の練習をしている。例のポスターや広告看板に使う、跳ねた字体である。

 

米子サンはやっぱり俺を嫌いらしい。あてつけにヤチを折檻して ヤチ向こうずねに怪我 荻須君が仲に入って気を使う。

ブラマンクの線も北画の線も文字もだめです。イシに会いたい。

俺は馬の目や欠点を生かすこと。

巴里といえば広告塔や。そやから一番に広告塔描いてみました。馬の目のワシの始めての作品です。

米子ハンの描かはってる ブラマンク+ウイトイロ+北画の画も 俺の画やけど これは 馬の目だけの 俺の画です。ほんまにほんまに 俺の純粋です。

米子はんは 俺が自分のもんやるの 反対ですよって 見せられしまへんから 薩摩ハンにでも 見てもろうて 手直ししていきます。

明日は写生に出て 薩摩ハンの奥さんと 誰ぞに会います。奥さんの画の先生です。

米子はんの画も手伝うてます。うもうやる つもりです。

 

 ※筆記具、書体が他の箇所ペン書きとは多少違う。この文章の前に広告塔のデッサンがある。新潟県立近代美術館にある広告塔と同じ構図である。

 

米子はんは ローランサンには 何故なれへんのやろか。日本人やからと米子はんは云う。

日本人やと 女はローランサンには なれへんのやろか。

米子はんの画の上達は凄い。俺はついていかれへん。俺が足手まといや。

(一字不明)やから サツマハンのアトリエで ヤチの子守。

今頃 ヤチは泣いてばかりいる。頭痛 吐く 騒がしい。

俺はダメヤ 俺にできるのんは 子守だけや。

眠るヤチ 疑い深い俺を いつも見守ってくれている ヤチを写生

カンバスはええのになったけど 尺八寸の尺五寸くらいかな。

時々俺と一緒に死ぬかと聞くと うんと返事するんや。パパと死ぬ、と云うんや。

俺がいつも何考えてるかも 知らんから

ほんまに時々死ぬ方がええと思うけど 今はできん、できん。

 

十月十七日

千代子ハンが さそいに来てくれはった。米子ハンが 荻須と巴里見物に 行かはって ヤチもおらんさかい 出かけた。

パスキンに出会いました。ピカソの仕事場も見せて貰うて 版画の仕事場も見て 俺もがんばる。

千代子ハンのアトリエは モンソー公園という処にあります。モンスリ公園という処にも 家を持ってますが そこはアトリエではないようです。

ブローニュ公園にも住まいがあって 今はそこに住んでいるようです。

 

 ※二十九日に初めて来る荻須が十七日に出るのはまことに奇怪だが、このような日時の錯誤は、佐伯にはよくある。荻須は「パリ案内記」の地図の裏の十月七日付の書き込みにも出ている(前述)し、この後にも何回も出てくる。それもパリ到着前の時期に登場する。これは、佐伯が不在の荻須らを狂言回しとして使ったものと見るべきであろう。登場人物が少ない場面を脚色するために、居る筈のない人物を加える手法を、佐伯は他でも使っている。「救命院日誌」の大正十四年条に、不在の池田巻さんが度々出で来る。

 

千代子ハンに 広告塔のとヤチのと 見て貰いました。千代子ハンも 画を描かれます。

自分のはちっともようない、と云います。パスキンいう人が先生です。ワシのは今迄の中で一番ええ、と云われました。おせじやろか。

サツマハンに見せるように云われました。あなた脱皮できたのね、と云わはった。

そうやとええけどな。

かわいたら送ります。熊谷先生に見て貰って下さい。

薩摩はんは アカデミックもフォービズムも関係ない 自分のものになったね と云われた。

米子ハンの描く大きいもんと違うて 小っこいけど 画の中に大きさがある 云うて下さいました。

乾いたら送ります。早く見せたい。

薩摩さん。米子はんには まだ見せんように 今まで通りにしておくように 云われた。

俺できんは。今日は云わんかったけど。

米子ハン 荻須君のパトロンになるつもりらしい。

       死   死    自殺  ヤチ

 

 ※馬の目の画風を確立する次第が、よく伺える。しかし、なぜ、ここに死と自殺が出てくるのか。ガス事故は、「救命院日誌」で千代子が語るように、本当に十月二十日に発生したのか?

 

十月二十九日

ゼニ届きました。米子はん 急いで家へ送った。えらく困ってはるようです。

今度も展覧会に 画出品するようです。

これはあなたの絵ですのよ。ほんとうに、よく出来ていますと、米子はんは云うし、荻須も毎日来て、見てるけど、ほんまにええのんやろか。

確かに俺が描いてるけど、俺の画や荒へん。あれは俺が手伝うた 米子ハンの画や。

米子ハンの天分と技の画や。まっすぐな線と きつい文字を組み合わせた 北画のええ画や。

ワシの才能や あらへん。

ワシが出来るようになってきたら どうしたらええんやろか。

北画かけへんから 違うた画になってもうて どうしたら ええのんやろか。

ほんまに 一生の内の一時期のもんと云われて 大丈夫やろか。

ほんまに その時は イシが助けてくれはるやろか。

イシが たすけてくれはるやろか。たのんます。

ワシ 修業しますは。

 

 ※この日付は、荻須一行がパリへ到着、来訪してきた当日である。当日なのに、毎日来て絵を見てるというのは、例の脚色か、この条が後日の記帳だからか。第二十回のサロン・ドートンヌは昭和二年十一月四日から十二月十八日にかけて開催された。米子の主導で、佐伯は米子加筆品を出品し、「新聞屋」「広告のある家」が入選した。公開佐伯に同じ画題のものがあるが、確かに英字の乱舞する米子流の北画である。「こんなものを、ワシの絵やというて人前に出して、ワシが馬の目の画風を仕上げたら、一体なんちゅうて、世間に弁明するつもりなんや」と、佐伯は心中で叫んでいたのである。

 

米子ハんは毎日楽しそうです。元気です。ヤチはたいてい、ワシといっしょです。

また夜は人がふえるようになりました。前みたいに毎日ではのうて、五日に一回くらいです。

 

 ※荻須一行がパリへ来てから、また佐伯家に集まるようになった。米子は来客好きで、喜んでいる。

 

ワシがんばりますは。

イシの云わはる通り 書くと気が晴れるようです。

やっぱりイシは名医やな。牧野さんより名医や。

 

 ※この報告は、佐伯が自発的に記帳したものであるが、その根本には、精神医学的見地からの周蔵の指導があった。

 

十一月二日

俺は俺なりに忙しい毎日です。

米子ハンと写生に出て 一日に多い時は三カ所くらい写生します。

夜は米子ハン描くし 夕方に俺は写生に出ます。

米子さんと歩いてる時にスケッチしたりします。

ワシ気がついたんやけど 馬の目や。ワシは馬の目や。ワシは馬の目や+ハエの目や。

俺 日記かかんでも 元気にできるかもしれん。

 

 ※馬の目に自信が出てきた佐伯は、元気と不安の間を彷徨する。

 

 第三節  鬼母

毎日米子ハンは × です。やちが可哀想や。

荻須がいると平和です。荻須が来てる時、一人で写生に出かけます。ヤチを連れていくことも あります。ヤチが俺と行く 云いますので。ヤチを一人で留守番させる からのようです。

米子はん今日で二日 ワシと 口をきいてくれません。画のことで 納得いかんようです。

俺は困ったけど どうしたらええやろか。手紙出します。ゼニ届きました。

三日 口ききません。ヤチがストーブ用の火箸で 折檻されたようで 足に怪我しました。

これからはいつも 連れていきます。

  四日 ×

  五日 ×

  六日 ×

  画は描いてます。

米子ハン留守が多いから、スキヤキ作りました。イシんとこのなつかしいは。

ヤチもスキヤキ好きです。くいもんは ワシに似ています。

画はストーブや、モンマルトルや、総菜屋オバヤンや、千代子ハンの専属洋裁師を描きました。

米子ハン 展覧会に画が入りました。売れたのです。巴里の人も 買わはった人いるようです。

 

 ※ストーブを描いた下のデッサンあり。ガス事故はこの後であろう。

   「U z o S a i k i 11.12.1927 俺のアトリエのストーブ」

 

米子はん 上機嫌やけど ワシとは口きかへん。ワシらはもう だめかも知れん。

千代子サン ヤチにオーバー作って くれはったけど 米子ハンが燃やしてしまいました。

  頭痛、目まいと耳も痛い。ネケル先生へ行く。

 

 ※佐伯の頭痛・目眩・耳痛は、ガス事故の後遺症か。とにあれ、ネケル先生の処へ診察を受けに行った。このネケル氏は、周蔵が紹介した本物の医者のジョルジュ・ネケルで、小児科病院の息子のようだ。

 

  米子ハン まだだめや   ×  ×  荻須とは 仲ええ。

  米子 ×  ワシとヤチは アトリエにいる。

 

 ※馬の目に目覚めた佐伯が、北画流を辞めたいと言い出すと、米子はいたく立腹して無言 戦術に出た。執念深い性格からして、何日もものを云わず、容易にうち解けない。それどころか、一人娘にまで折檻を加えるし、荻須の処に行くときも放置していく。薩摩千代子が贈ってくれたオーバーも、燃やしてしまった。と佐伯はいうのだが、どこまで真実か判らない。周蔵は「もし佐伯が精神分裂症だったのなら、ヤチを折檻した者は、本当は佐伯であろう」と言っている(「周蔵遺書」)。

 

俺が自分画 描くことは 米子ハンは反対です。一人の画家に二種類の純粋はない、と云います。

やめて下さいと、気が狂うように、怒ります。

俺が死んだら 葬式済まして あと追って死にますから やめて下さいと云う。

 

 ※米子は、今回も北画手の佐伯がサロン・ドートンヌに入選し、せっかく軌道に乗り出したのに、佐伯本人が馬の目流の自分画を描き出しては、米子は堪らない。

 

こないなもん 書いても イシに話してるのと違うて ムダや。ムダ。

米子ハンの気持ちは分かる。一人の画家が二種の画を描くのは ほんまにない事やと思う。

けどワシの純粋はこれや。今毎日描いてるこの作品がワシのほんまの純粋や。

米子ハンは誰も認めんと云う。イシとヤチが認めてくれるやろと、ワシは思うてます。

世間の認める佐伯祐三は、米子ンハンの天分と技 借りないかん云うんやと 米子ハンは云う。

モディイリアニーの奥さんのように、ワシが死んだら葬式を済ませて、五日後に自分も死ぬさかいに 今の画はやめて下さいと 云わはる。

たが、ワシは今日はこのアトリエの中のストーブを描いています。今頃は頭も痛ふなくなった。

画に技はできたように思う。ええもんかどうか分らんがワシの技や。

ワシはモディイリアリーではない。米子ハンはワシより長生きしてええ、と思うのです。

今は生きる事 生活の事には 一生米子ハンを守っていく 思うてます。

はじめて会うた時 誓ったように、米子ハン守ります。

けど自分の画 描きます。イシとヤチのために。

 

 ※佐伯は馬の目の画風に自信を持ち始めた。それは米子の北画流加筆作品とは両立はしない。米子はどうしても、佐伯に馬の目流を辞めさせようとした。

 

ワシは今になって 巴里の中を よう見て歩いてます。

米子はんから 広告をしっかり見て と云われたんを思い出して ワシは 一枚の広告をじっと見て 頭の中で 馬の目とハエの目と魚の目で 考えます。

じっと見てると 画が沸いてきます。

スケッチして デッサンして 家で描きます。

ガスの事があってから、米子はんは 巴里の街中 描かんようになりました。

描けん云うてます。技が止まってしまったようです。

前に来たとき済んだクラマールの方や、ブラマンクの家の方へ行きたい 云います。

ワシはもっぱらモンマルトルを歩いてます。

今の調子やと、あと五年は生きたいな、と思います。

不安です。夜恐ろしうて 眠れんようになりました。

あれから米子ハンが話しかけてくるけど、ワシは話しも ようせんようになりました。

ヤチをワシといっしょに葬ってしまうことが、ワシの心のわだかまりになりました。

ヤチはかわいい子です。イシも云わはったように、素直で敏感でええ子です。

 

 ※ガス事件の時期は二通り考えられる。ガス事件以後、米子は下町風景が描けなくなり、郊外へ行きたいと言うようになった。佐伯は、ヤチと二人で葬られるのかと思うと、恐ろしくて眠れなくなった。薩摩千代子は「救命院日誌」では、十月二十日ころ、アンソール風に走る佐伯に対する不満を、米子が形で現したデモンストレーションというが、文脈を総合的に理解すると、十二月それも中旬としか考えられない。

 

ヤチをいらん いうんは 分かりません。

ワシと米子ハンの事 建て直すには ワシが早よええもん描いて、売れんとだめや、と思うてます。

もう日記などかかんで 画かきます。

ワシが死んだら 山田によう礼云うて下さい。山田は気いつかうてくれます。

ええもんさえ描けば 今迄の事 水に流せると 云うてくれます。イシと同じです。

礼云うて下さい。

さようなら。

この帳面はワシの画日誌です。イシに云うてきた ワシの心の奥です。

この帳面 送らんでもええと いいな思うていつもかいてます。

この帳面送るのは ワシが のうなってしまう時です。

ワシはイシと山田から人間を習いました。イシは、誰でも明日は分からんと云うた。

明日のための覚悟はしておいた方がええ、と云うた。人間は平等やと云わはる。

山田は、米子ハンが靴屋を展覧会に出さはった時、ワシが山田に打ち明けた時、

「米子ハンも苦しいやろ きっと。お前より苦しいかも知れん。セイコウするまで 米子ハンに任せたらどうか」云うた。

それはみんなワシのせいや。ワシが米子ハンなしでは いられんからや。

ワシがズボで アホなんや。心配かけてすまん事です。

兄さんやったらどない怒るか、目に見えるわ。

報いんならん 思うてます。

   さよなら。

 

 ※これは真実とみて良いのではないか。佐伯は一昨年のサロン・ドートンヌに、米子が描いた「コルドヌリ」を佐伯名義で出品したことを、山田新一に打ち明けていた。佐伯名義の二枚のうち、一枚は佐伯の自作とある(大正十四年一月二十二日周蔵宛て佐伯書簡)から、それは「煉瓦焼場」で、「コルドヌリ」は米子の作品と分かる。

 

薩摩さんの連れて行ってくれはった、メシ屋のメシはうまい。

メシ屋のオバハン 洋裁屋の縫子 気に入ったもんができた。

送るさかい見て下さい。

一度熊谷先生に見て貰って下さい。

 

 ※メシ屋というのは、公開作品の「惣菜屋」と同じ構図か。縫子は薩摩千代子の専属の針子である。洋裁師(縫子)と靴屋のデッサンの裏に、次の書き込みあり。

 

     (洋裁師のデッサン)

米子ハンと違って、ワシは写生せんと描けへんから 写生をするは仕方ないのです。米子ハンは写生の必要はないのですが、頭の中に余計に描いてしまうのやそうですが、ワシは写生して、翌日に油で画布にも写生する時もあります。

写生(スケッチ)→水彩(鉛筆などのデッサン)→画布に油絵の具でデッサン→油で本描き という具合です。今日は千代子ハンの専属洋裁師描いてきました。

  (靴屋のデッサン)

米子さんは洋服のデッサンばかり描かはってます。絵附で使うてデザインしてはります。ワシのように 写生してデッサンして描くもんやない、云わはりますけど、ワシは写生がよう出来んと、ええもんにならへん。熊谷さんもそうや云うイシの話しに、ワシはやり抜く意地がはれます(後略)。

 

 ※重要な資料である。米子は、デッサンなしで、いきなり本画がやれた。朝日晃の云う一気呵成の「現場主義」は、実は米子の画風なのである。佐伯は正反対のデッサン先作主義であった。

 

米子ハン 又誰ぞの画を売ってはるのんと違うやろか。何や、ゼニに困ってはるようや。

あと五百円くらい、イシから貰うてほしい 云わはった。

荻須にもゼニやってはるし えろ暮らしがきつい。

芹沢さんには嫌われた、と思うてるけど、米子ハンは思うてへんようやから、またマチスかセザンヌを売りに行ったりしたんやろか。

イシ 助けて下さい。

 

 ※米子は第一次渡仏の帰りに、フランスの有名画家の作品を仕入れてきて、日本で売りつけた。上高田の質屋が買わされた輪が「救命院日誌」にある。

 

米子ハンは看板描かんようになったけど、ワシは今日は それ描いてます。

それでも八枚になりました。ワシは自分のこの画 気に入ってます。

馬の目で良かったかも知れません。人のもんと違うけど ワシ気に入ってます。

 

 ※佐伯が、馬の目の画風にしだいに自信を得てゆく過程が分かる。

 

ガスで失敗しよったから 今度はいつか分からんけど 生きてる間は描きます。

ワシ一生で 今が一番気が楽や。何や時間の限りがあるようで。

米子ハン。つわりん時みたいに 気が立ってます。

もうすぐかも知れんな。

 

 ※佐伯は、必ず米子が仕掛けてくると予感した。しかし、死を畏れていない。余命に限りがあることで却って気が楽というのだ。「もうすぐかも知れんな」とは、不気味な言葉である。

 

手紙とゼニが届いて 来ることが分かりました。米子ハンには話してません。

イシが来る前には 死にとうないから。早よ来て下さい。

 

 ※周蔵の渡仏の連絡が佐伯に行ったのは、十二月ころであろう。周蔵の到来を米子が知ったら、その前に何かをしかけてくるかも知れないと、佐伯は懸念している。

 

今頃米子ハン 全然 画を描かんように なりました。描けんようになってしもうたようでず。

荻須と俺に 技を教える事が しんどくなったんかも 知れまへん。

俺に教えるのが アホらしくなったんかも 知れまへん。

米子ハンの描かはった画は 四十枚はあらへん。俺は下手やけど、三百枚は描きました。

米子ハンのもの 前において 毎日 ように描きました。

尤も 馬の目のものは まだ十枚くらいです。ほんまの俺のものは そんくらいです。

米子ハンは 何で描けんように なったのやろか。

描けても見せんようになった と云わはってるようです。

 

 ※米子は手直しは天才的だったが、創作性は低かったようである。

 

 十二月二十二日付、「ロシア少女」(本格画)のキャンバスの裏のメモ。

  二二,一二,一九二七

 今日は風邪を引いて寝ていたところ、薩摩さんのところで心配してくれはって、モデルを連れてきてくれはった。ロシア服を着てくれはって、二枚続けて描いた。どっちもどっちやけど、おもろく出来た。

 

この娘は怒っているようや。モデルで家族のためになるのんが、腹が立つらしい。

ヤチによう似てる。怒ったんやろ。今日は一人やから画も描いて、日記もつけた。

おもろいロシア服の娘や。

 

 ※「ロシア少女」を描いた時のことを記しているが、昭和二年十二月二十二日、佐伯が風邪を引いて寝ていたら、心配した薩摩からロシア服を着た少女モデルを寄越してくれたので、二枚続けて描いた。「第二次パリ報告」も付けた、としている。現場を見ていない米子が、このモデルのことを、まことしやかに阪本勝に語っている(阪本勝「佐伯祐三」)が、米子は少女が来たのを翌年四月、佐伯が風邪を引き抜歯の影響もあって体調を崩し、寝込んでいた時のこととする。おかしな事に、米子が語る度に状況が少しづつ変わる。「みずゑ」昭和三十二年二月号には、「郵便配達夫」の後でこの絵を描いたというが、昭和三十六年の「世界名画全集・続巻六」の回顧録では「黄色いレストラン」の後がこの絵で、その後が「郵便配達夫」といい替えた。モデルとの会話などは、米子が展開してきたまことしやかな作り話だ。ただし、名前をダフィエと云うのは、あながちデタラメとも云えない。同じモデルを描いた熊岡美彦の昭和三年四月制作の作品が現存(茨城県立近代美術館蔵)しており、このモデルは、当時界隈の日本人画家に存在を知られていた事が分かる。すでに、年末から家庭内別居をしていた米子が、この画題を初めて見たのは、周蔵から油彩下描き貰った昭和五年の春と思われる。見たこともない制作現場を逸話に仕立てていろいろ脚色し、これを俗流評伝家が祖述する様は、まさに噴飯ものだ。

 この絵の構図には二種類、すなわち正面を見た全身像と半分横向きの顔とがあるが、公開作品の正面像の方は戦災で消失し、半身像の方は大阪市立近代美術館の山発コレクションにある。その画布からは、序章で述べたように、白亜(炭酸カルシウム)が検出され、亜鉛華は出てこなかったから、油彩下描き用の薄塗り画布を用いたことがはっきりした。この絵の制作時期を、朝日晃が昭和三年三月とする根拠も米子説話であろう。

 ところで、この絵に関しては、米子と俗流評伝家にとって、具合の悪い証言がある。それは、昭和二年秋に荻須と一緒にパリに来た山口長男が、「絵」昭和四十三年十月号に、「ロシアの服装をした娘などは、その頃(昭和二年末頃)、見せられた」と証言していることである。これは、吉薗佐伯のキャンバス記載を裏付けるとともに、山口には見せたが、米子には見せなかったことも推察される。尤も、山口は「(同じ頃)郵便屋のおじさんにいい髭をしたのが来るので、描かしてもらうことにしたと、楽しみにしていた」とも云うので、やや引っかかるが、「郵便配達夫」の制作が翌年の四月末になったのは、予約と制作の合間が開いただけとみれば、山口の記憶が間違いとは云えまい。

 佐伯の描いた本格画の方は、半身像も全身像も、近年まで吉薗家にあったが、半身像は大阪の画商T氏がたしか七千万円で購入した。修復家の話では眼球に、当時の新顔料のチタン・ホワイトを用いており、そのため今でも色鮮やかで、鑑賞する者に独特の印象を与える。全身像は、吉薗家から債務の担保として、平成七年に山本晨一朗氏に移った。画布は地塗りが数ミリに達し、あたかも壁を塗った観があり、間違いなく本格画用の画布である。これと本格画の「郵便配達夫」に藤田嗣治一枚を加えた絵画三点を担保として、吉薗明子は山本氏から一億二千万円を借りたが、武生市役所が積極的に関与した贋作事件の結果、一円も返せなくなり、詐欺罪に問われた。古来、珠を抱いて罪有りとは聞くが、これだけの価値ある絵を提供していながらなお詐欺罪とは、法律とは難しく恐ろしい。告訴人山本氏から示談要求により、さらに数枚の本格画を追加したのに実刑判決というのも、凡民には理解できない司法の峻厳さである。官災に注意すべし。

 

   十二月二十九日

米子ハン、荻須の処では、描いてますやろか。荻須には教える事出来てるんやろか、と思うてます。

ワシはもう巴里の画は 描けへんかと 思うてます。

荻須が ワシの画に 迫ってきよりますさかい、俺 巴里描くわけにはいかんなと、思うてます。

 

 ※荻須の絵と佐伯の公開作品の類似性は誰もが知っている。二人とも米子の弟子だから同然だ。比較すれば、荻須の方が小綺麗だが、どこか弱さと線の細さは否めない。

 

開けて昭和三年一月。パリ地図の裏に書き込み。要約。

昭和三年元旦に、パンテオンをデッサンして、あとは毎日パンテオンを描いている。

 

 ※デッサンは元旦だけで、その後は毎日画室で描いているのである。

                                (続く)

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